Interview
匠インタビュー
2022.02.28
熊野古道の語り部の第一人者として、熊野本宮語り部の会の会長として、その卓越した知識で多くの観光客に熊野の歴史と魅力を案内するとともに、語り部の養成やレベルアップに尽力されてきた坂本勲生さん。語り部として大切にされてきたことや活動の原点、熊野の歴史や文化を次の世代に受け継いでいくための「人づくり」などについて伺ったところ、優しい語り口で一つ一つ丁寧にお答えいただきました。
坂本 勲生(さかもと いさお)
熊野本宮語り部の会会長。1928年和歌山県本宮町生まれ。1948年和歌山師範学校卒業後、和歌山県教員となり、小・中学校にて40年間教鞭をとる。1988年和歌山県本宮町立三里中学校長を最後に退職。本宮町史編纂室長、本宮町文化財保護委員会委員長などを歴任。熊野や古道の歴史・伝承を調べて熊野古道の語りを編み出し、1998年本宮町語り部の会(現熊野本宮語り部の会)立ち上げに参加し会長に就任。2004年国土交通省「観光カリスマ百選」の1人に選定される。2015年「平成26年度ふるさとづくり大賞 個人表彰」受賞。
―「語り部の会」を作られたきっかけを教えてください。
和歌山県で熊野古道を日本三大歴史の道として全国に知ってもらいたいという考えのもと、1970年代の後半から1980年代前半にかけて古道調査と修復が行われました。さらに1990年に古道歩きを中心とした「古道ピア」が開催され、それがきっかけとなって、古道の案内人として「語り部」を希望される観光客が増え、年を追うごとに案内の件数も増加していきました。それまでも本宮町では数人が語り部としてボランティアで活動をしてきましたが、1999年の「南紀熊野体験博」の開催が迫る中、熊野古道の中心となる本宮町では語り部の増員や案内の質の強化のためには規約や有料化が必要と考え、1998年に公式の「本宮町語り部の会(現熊野本宮語り部の会)」が結成されました。現在、30名程度の会員が在籍していて、一番若い人が40代、最年長が会長の私で93歳です(笑)。
―語り部の会の立ち上げにあたって注力されたことはなんですか?
それまでの語り部は、各自が思い思いに話していました。中には史実と異なる話をしている人もいて、このままではマズイと思いました。そこで語り部全員に案内中に自分が話している内容を書き出してもらい、さらに説明内容を充実させようと文献を集めたり、外部資料も使わせていただいたりして、「語り部の冊子」として1つにまとめました。古文書なども資料として使用したので、その正確性を調査する作業が本当に大変でした。完成したこの冊子を使って定期的に勉強会も行いました。夜間に座学をして、翌日の昼間に実際に現場へ行って、歩きながら一緒に話し合う。この活動は現在も続けています。
―語り部として坂本さんが大切にされていることは?
知らないことを知っているように話さないことですね。正直に「勉強不足で申し訳ありません」と謝って、すぐに調べて返事を送るように心がけています。以前、私がご案内をしているときに質問に答えられないことがあり、案内から戻ってすぐに調べて手紙を書いたところ、お返事をいただきました。手紙には「後日お調べしますと言われても今まで手紙をもらったことがありませんでしたが、あなたはすぐに返事をくれました。やはり本宮の語り部の方は信頼できます」と書かれており、本当にうれしかったです。
もう一つは、誰にでも理解してもらえる言葉を使うことです。会員の方にも自分たちが毎日使っている言葉で、中身をかみ砕いてお話できるようにしてくださいとお願いしています。楽しかったと最後に言ってもらえる、お客さんに喜んでもらえる案内をしよう、が私たちの申し合わせ事項なのです。実際に、誰が案内しても本当によく分かったとお客さんには非常に喜んでいただいていますし、中には「またお願いしたい」と、2度も3度も案内を依頼していただいた方もいらっしゃいました。
―近隣の小・中学校の子どもたちの語り部活動にも力を入れているそうですね?
大人の語り部の養成も大切ですが、さらにその先へと受け継ぐ人を作らなければいけないと、「語り部ジュニア」の育成に取り組んでいます。ちょうど私が会長になった頃、三里小学校の校長先生から子どもたちに語り部の勉強をさせたいから手伝ってほしいと依頼を受け、こちらとしてもそれは大変ありがたいことだと活動を始めました。現在は、三里小学校、本宮小学校それから本宮中学校の生徒さんたちが参加してくれています。
内容は、古道について学習した後、実際に古道を一緒に歩き私たち語り部の話を聞いてもらい、最終的には語り部として子どもたちに古道を案内してもらってその成果を披露します。子どもたちには、聞いた内容をそのまま話すのではなく、自分が興味を持ったことを自分の言葉で伝えてくださいと言っています。
―子どもたちにはどういったことを学んでほしいですか?
古道に対して理解を深めることで、自分たちのふるさとの素晴らしさ、それを守っていく大切さを学んでほしいですね。ジュニア語り部もそうですが、地域の人々が協力して古道の修繕・整備を行う道普請(みちぶしん)もそうです。私の子どもの頃はみんなで道普請をしていました。それは、古道が多くの人が通る生活の道だったからです。でも、自動車道ができて古道を歩く人が少なくなり、放置されて傷んでいる状態でした。しかし、今は世界遺産になったことで古道をきちんと残そうという意識が生まれています。お客さんが来れば来るほど、それはそれで古道は傷みますが、子どもたちと一緒に道普請をすることで、傷んだ道を元に戻すことの大切さを知ってもらいたい。熊野の歴史と文化を受け継ぐ人を増やしていくことが、私たちの重要な使命の一つです。
―世界遺産に登録されてから地元の方々の意識の変化はありましたか?
私はガイド中に道で地元の人に出会ったら積極的に話を振るようにしています。たとえば畑で出会ったら、お客さんに「その野菜どんな風にして食べているか聞いてごらんよ」と言って背中を押してあげる。すると、地元の人も色々と教えてくれる。世界遺産に登録された効果でしょうか。最初は人見知りしていた地元の方々もだんだん変わってきて、今では積極的に話してくれるようになりました。機会があるごとに地元の人たちに、観光客の人と出会った時にちょっと話しかけてあげてよ、とお願いしています。訪れる人々に対して本宮町民すべてが語り部になっておもてなしをしてほしいというのが私の夢です。
―観光振興のために活躍する地域リーダーとして、2004年に「観光カリスマ」に選定されています。また、2015年には「平成26年度ふるさとづくり大賞 個人表彰」を受賞されました。
熊野古道を盛り上げていこうと県の方が推薦してくださり、「観光カリスマ」に和歌山県で初めて選ばれました。また、「ふるさとづくり大賞」は、語り部の育成や研修に取り組み、人々の地域資源への関心を高め、地域づくりに力を尽くしたということが表彰の理由だったと思います。ただ、本宮には他の語り部さんもたくさんいて、みんな地域のために尽力してくださっています。たまたま会長している関係で私が選ばれただけで、本当なら私個人ではなしに本宮の語り部として表彰してもらいたかったというのが本音です。受賞の際に皆さんが集まって祝いをしてくれた時にも、「語り部をしてくれている皆さんと、ここに集まった皆さんがいろいろ骨を折ってくれたから、私の名前で表彰されただけです」と正直な気持ちを伝えました。
―坂本さんの活動の原点はどこにあるのでしょうか?
子どもの頃は、戦時中だったこともありますが、戦争に関わる歴史教育がほとんどでした。ただ、和歌山師範学校に入って進歩的で正しい歴史を教えてくれる先生と出会うことができ、詳しく熊野の歴史を教えてもらった時に、自分たちが習ってきたのは作り物だったのではないかと衝撃を受けました。それが私の原点ですね。教職の道を進むことになったときに本物の歴史を教えようと強く決意しました。教員時代には本宮町の歴史を研究し、地域の歴史や史跡を教材に取り入れた授業を行うようにしてきました。また、1988年に教師を定年退職してから、本宮町史の編纂室室長に就任して古文書などの資料収集に携わり、4冊からなる本宮町史を作り上げることができました。郷土の歴史や文化をまとめたことで多くのことを学びましたし、それが語り部の活動にも大いに役立っています。
―古道の中で、坂本さんの思い入れのある場所はありますか?
すべての場所がお気に入りですが、今まで歩いてきてたった一度だけ、ここは本当に極楽だな、と思った場所があります。その日は悪天候で、お客さんと雨の道をぐずぐずと歩いていたのです。水呑王子から伏拝王子までの山道で雨のせいか霧がどんどん上がってきてちょっと薄暗い感じだったのですが、その時に急に天気が変わって陽射しが差し込んできたのです。その光線が本当にすごく綺麗だったのです!何て言うのか、虹色の光線が降り注いできたのですね。全員これはすごいねってその光景に見惚れ、中には手を合わせている人もいました。本当にこれがあの極楽だなと思えた、そういう瞬間でした。もう一度その光景を見たいと思って歩いているのですが、その時以来まだ出会えてないですね。
―最後にメッセージをお願いします。
熊野に来られる方には、単なる観光としてではなく、歴史的背景を踏まえ熊野についてもっと深く知ってほしいですね。そのためにも、事前に本などでできるだけ熊野に関することを勉強してきてもらえたらありがたいです。そして、来られた時に語り部と歩いて、いっぱい質問してもらって、地域の人ともふれ合ってもらって、なぜこの山道が世界遺産になったのかを考えてほしいと思います。今は新型コロナウイルスで大変な時期が続きますが、皆さんとお会いできる日を楽しみにしています。